朝の通勤途中、乗り換えのためホームで快特列車を待っていた。
列車を待つ列の先頭には、身体を密着させて列車を待つ男女の姿。
朝っぱらからイチャイチャしやがって、なんて野暮なことは思わなかったが、ホームの縁の方に立っていたので、もう少し内側に下がって待っていてくれないかなあ、ぐらいは思っていた。
特急列車が到着して、それに乗り込む。オフ・ピーク通勤とはいえ東京方面へ向かう列車なので、押し合い圧し合いするほどではないものの、車内はそれなりに混雑していた。
それでも、ドア付近の吊革を掴んで、ほっと一息ついて立っていたら、隣にはホームで見たあの男女の姿が。やっぱり身体を密着させたままだった。
男が左手で吊革を握って、右手はポケットの中へ。
女はポケットへ伸びる男の腕に自分の左腕を組んで、俯いた姿勢のまま、左手に持った布のような何かをいじっていた。
最初はその程度しか観察していなかったので、気にもしていなかったのだが、しばらくして また隣の男女に視線を移したときに、女が手に持った何かを凝視して、右手でしきりに その何かをいじっているように見えた。
布に毛玉でも付いていたのだろうか? それを取っている?
傍目に見れば、そう見えないこともない。でも、さっきから、ずっと毛玉を取り続けていたなんてことはないだろう。
しかし、気になって よく見てみたら、そんな単純なことではないことに気付いた。
その女性は、右手に針を持って、左手で持った布に刺繍をしていたのだ。
赤い布に、金色に見立てた光沢のある黄色い糸で、雷紋※の刺繍をするその手つきは、まるで電子ミシンのように正確無比で、みるみるうちに形になっていく。
雷紋の内側には、漢字の刺繍も見えた。書の達人が書いたかのようなきれいな字だ。これも乗車前に この女が縫ったのだろう。
※雷紋:ラーメンの器でおなじみの四角い渦巻き模様
電車の中で編み物をする人は ときどき見かけるが、刺繍をする人を見たのは初めてだ。それも、揺れる車内で立ったまま、ミス一つせずに スピーディーに針を刺していく。
さらに、その糸が短くなると、女はカバンの中から新しい糸を取り出し、その糸を針の穴に やすやすと通して、また刺繍の続きを始めた。
くれぐれも言っておくが、ここは電車の中だ。
かつて「関東最速伝説 頭文字KQ」とか「湾岸の赤い彗星」と呼ばれ、今でもJR東海道線をMAX.120km/h でカッチョヨク抜き去る 我らが韋駄天通勤列車・京浜急行 新1000系の車内だ。
JR線ほどではないが、それなりに揺れる車内で刺繍だぁ? 針の穴に糸だぁ?
何者だよ、この女?
感嘆に値する技を簡単にやってのける その女が、男と言葉を交わす。たぶん中国語だ。
支那人か中華民国人(台湾人)かは分からないが、赤い布に黄色い糸で漢字の刺繍なら、中国系であることは間違いない。彼らの こういう技術には、本当に感心させられる。俺も これぐらい手先が器用だったら、もっと色んな趣味が持てたんじゃないかとか、色んな職種に就けたんじゃないかとか、根拠のない希望的観測を浮かべながら、その姿を眺めていた。
列車が品川に到着し、その男女が下車した。
朝っぱらから名人芸が見られて良かったなあ~……なんて思っていたんだが、何か大事なことを忘れているような気がした。何だっけ……と思った瞬間に気付いた。
名人芸に見とれている場合じゃなかった!
混雑する車内で 針なんて出してんじゃねえ、ってつっこむべきだった!!
俺も まだまだってことだろう。ランバ・ラル大尉に笑われているような気がした。
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